向けられた銃口

 殴られた頬が、焼けるように痛い。冷たいコンクリートの床に倒され男と揉み合いになっていると、遠くへ蹴った筈の銃の所までいつの間にか近づいていた。

「……っく、!」

 抵抗も虚しく男が銃を手にして、私の上に跨る。仰向けのままの私にできることは、必死に銃口をこちらへ向けさせまいと男の手を押し返すことだけ。じゃりっじゃりっと、靴が床を擦る音も、脈打って止まらないこの心臓の音も、まるで警告音のように煩く鳴り続けたまま。

「く、そが……手間取らせっ、やがっ、て!」

 男の、瞳孔の開き切った瞳。ここまでだ、と言わんばかりの勝ち誇った口元。荒い息に、黄ばんだ歯が鮮明に脳裏に焼きつく。銃を押し返す両手が震える。

「っ……しまいだっ!!」

 唾を飛ばしながら男は、最後の力を振り絞るように銃口を真下に向けた。

ー嫌だ、嫌だ……っ!

 声にならない叫びを力に込めるように堪えていたその時、銃声が響き渡る。反射的に目を瞑った瞬間、男が唸り声を上げ私の上に倒れ込んだ。べちょりと、生暖かい液体が頬を濡らす。

“っ……名前!!”

 苦い火薬の匂いが、鼻の奥を刺激する。片耳がぼーっとして聞こえづらい。男は片手を押さえながらも身悶えるように、床を転がっていく。しかし銃はまだ男の手の届く位置にある、そう思った瞬間、大きな黒色のシルエットが視界を横切っていった。

「ぁ……」

 赤井さんは手早く銃を遠くへ蹴ると、男の腕を荒く拘束する。床に横たわっていた男は痛みに悶えるように声を上げていた。

 その間、私は床に仰向けになったまま動けなかった。痛みからではない。金縛りに遭ったかのように、身体が固まってしまっていた。視界も次第に歪んでいく。赤井さんは男に手錠を掛けると、建物のパイプに繋いでいた。

「っ……名前、」

 だんだんと近づいてくるその姿に、“どうして”と聞きたいのに、息すらまともに出来ない。視線も全く定まらない。

「名前、っ」

 赤井さんが手荒く私の上半身を引き上げる。本当は“大丈夫です”と伝えたいのに、はっはっ、と浅い呼吸が続くばかり。これでは壊れた機械だ。

「名前……俺を見ろ、」
「っ、あ……っ」
「見るんだ」

 赤井さんの瞳が、いつもと違う気がした。ようやく呼吸の仕方を思い出したかのように息を大きく吸うと、赤井さんは何度か頷いている。

「……なん、で、っ」
「銃声が聞こえた」

 赤井さんは“もう大丈夫だ”と言いながら、震えが止まらない私の背中を摩ってくれた。でもその優しさが今は辛い。捜査官なのに、こんなことで動けなくなる自分が情けなくて、悔しくて。赤井さんに、“お前はこの仕事に向いていない”と思われたくない。そんなこと、自分が許せなかった。なんとか気持ちを立て直して、コンクリートの床に手をつく。

「……っ!」

 けれど視線上げた先、殺意を向けるようにこちらを睨んでくる男を見た瞬間、喉の奥がヒヤリと鳴った。

「……立てるか?」

 そう聞かれて頷くけれど、震える足には上手く力が入らない。どこまでも情けない自分の姿に腹が立つのに、身体は全く言うことを聞かない。

「……すみま、せっ、」

 気配見かねた赤井さんが肩を貸してくれて、私はほとんど引き上げられるようにして立ち上がった。でも、自力で歩ける気がしない。ようやくサイレンの音が聞こえてくる。目の前が真っ暗になるような思いだった。

「それで、例の男はまた闇の中……か」
 
 応急処置だけ済ませて本部へ向かうと、ボスは視線だけで私を別室に呼んだ。有給中、偶然にも最重要指名手配犯を見つけた私はボスの指示を破り、一人、廃ビルの中へ入って行った。その上、本命ではなく手先の男に見つかってしまったのだから状況は最悪だった。

「もういい、今日はもう帰れ」
「っ……しかし!」
「それにしても助かったよ、赤井君。わざわざ悪かったね。君ももう、仕事に戻ってくれていい」

 ボスは私を無視したまま、そう言って部屋を出て行く。後ろの壁に凭れたまま、静かに私たちの会話を聞いていた赤井さんもボスに続くように身体を起こした。

「彼の言う通り、今日はもう帰るんだな」
「っ……でも、私っ」
「外へ出るついでに送ってやる、荷物をまとめて降りてこい」

 それだけ残して出ていく赤井さん。まるで、私の意見など聞くつもりはないみたいだった。

「ま、っ……待ってください!」

 彼の後を追おうと足を踏み出すけれど、身体が軋むように痛みが走る。自然と息が詰まった。赤井さんは足を止めると、長い髪を揺らして私へ視線を向けている。その表情からは何も読み取れない。

「今の君に、何ができる?」

 数秒、空いた時間こそが答えだと言うように彼は黒のロングコートを翻して行く。

「……っ」

 ついに、赤井さんにも見放されてしまった。そう思うと、耐えていた涙も溢れそうになってくる。でも本当に、赤井さんの言う通りかもしれない。今の私に出来ることは何もない。ここに居る意味がない。

「っ、すみません……」

 声をかけてくれた先輩たちからも逃げるように駐車場へ向かうと、既に赤井さんが車を回してくれていた。煙草の火を消して、早くしろと言わんばかりに、顎で乗れと言っている。

「あのっ」

 私の返事も聞かず運転席へ向かう赤井さんを見ると、これ以上迷惑をかける訳にはいかないと思った。急いで助手席へ座ると、本当に逃げ出しているようで虚しくなった。

「名前、」

 赤井さんが缶コーヒーを差し出してくれている。その意味を察して受け取ろうと手を伸ばすけれど、指先が震えていて上手く握れない。

「ぁ……」

 あれから時間も経っているのに、震えが止まっていなかった。何度か手を握ってみても変わらない。そんな私を見かねた赤井さんは、助手席側のドリンクホルダーに置いてくれる。

「それは正常だ」
「……?」
「危険な状態にあったと身体が認識している。だから今は帰るんだ。これも通常の流れだよ」
「通常、の……」
「その状態では何もできん。身体も痛むのだろう?」

 咄嗟に反論しようとするけれど、言葉は続かなかった。全部、赤井さんの言う通りだ。

「とはいえ君のことだ。素直に休む気にもならんのだろうな」

 赤井さんには、私がまるで駄々をこねる子供にでも見えているのだろうか。軽く笑いながらエンジンをかける姿からは、その言葉の意味を全く読み取れなかった。

「まあ、好きにしろ」

 淡々と、赤井さんはサイドミラー出してはラジオをつけていく。無音だった車内には、どこか懐かしいカントリー調のミュージックが流れ始め少しだけ空気が柔らかくなる。

「このまま、気が済むまで乗っていればいい。俺は俺の捜査を進めるが、多少なりとも気は紛れるだろう?」

 早く帰宅したいのなら別だが、と付け加えて赤井さんはシボレーを発進させていく。じゃりじゃりと、地面に音を立てながら門を出ると車は一気に加速した。ハンドルを握っている赤井さんはの横顔は、もういつも通り。

「いいん、ですか?居ても」
「ああ……頬は、冷やしておけよ」

 手に握ったまま、膝の上に置いていたアイシングに視線をやりながら、赤井さんはハンドルを回していく。その様子に少しだけ安心して、私はゆっくりと背凭れに身体を預けた。再度、自分の指先を見るとやはり震えている。

 赤井さんは道中、私に何も聞かず、何も語らなかった。ただ淡々と、しかし何かに掻き立てられるように捜査に勤しんでは、時折、体調や休憩についてだけ気にかけてくれている。

「赤井さん、すみません色々……」
「さっきから、謝ってばかりだな」

 ここでまた、謝ろうとしていたことに気づいてぐっと堪えた。

「これは全て、俺が勝手にしていることだ。不愉快だというのなら家まで送ろう」
「……そうじゃ、なくて」

 丁度、赤信号で車が停まる。

「ありがとうございます、赤井さん」
「……それでいい」

 私は力が戻ってきた手を、ギュッと握る。ここで弱っていてはいけない。明日から絶対に、取り返そう。それが私のやるべきことだ。

「いい目だ、」

 そう言って、赤井さんは僅かに口元を緩ませた。その表情を忘れたくないと思った。ずっと遠くからでも、見守り続けてくれている赤井さんに私はいつか応えたい。そう決心して、私は前を向いた。