非番の日、偶然にも最重要指名手配犯を見つけた私は男の後を追っていた。でも、男が廃ビル内へと入ってしまい一刻を争う事体に。ここで見失ったら確保のチャンスなど二度とこない。その一心で私はボスの指示「応援が来るまで待機」を聞いていられなくなくなった。単独行動に走ってしまった。その結果、本命ではなく手先の男に見つかってしまったのだから、本当にダメな捜査官だ。
「っ、う……!!」
殴られた頬が、焼けるように痛い。男と揉み合いになっていると、先ほど遠くへ蹴った筈の銃の近くまで来ていた。
「……っく、!」
抵抗も虚しく手を伸ばした男が銃を掴み、数発、発砲。必死に男の腕を掴みなんとか軌道はずらせたけれど、分が悪い。体勢を戻してもう一度、銃を奪おうとするけれど男が私の足元を掬う。バランスを崩し地面に倒れた私は無防備だった。出来ることはなんとか手放さなかった銃口を、こちらへ向けさせまいと押し返すことだけ。じゃりっじゃりっと、靴が床を擦る音も、脈打って止まらないこの心臓の音も、まるで警告音のように煩く鳴り続けたまま。
「く、そ……手間取らせっ、やがっ、て!」
私を見下す男の、瞳孔の開き切った瞳。ここまでだ、と言わんばかりの勝ち誇った口元。荒い息に、黄ばんだ歯が鮮明に脳裏に焼きつく。銃を押し返す両手が震える。男は唾を飛ばしながら、最後の力を振り絞るように声を荒げた。
「っ……しまいだっ!!」
嫌だ、嫌だ、いやだ。声にならないまま必死に男の銃を押し返していた時、銃声が響き渡る。反射的に目を瞑った瞬間、男が唸り声を上げ私の上に倒れ込んだ。べちょりと、生暖かい液体が頬を濡らす。
“っ……名前!!”
苦い火薬の匂いが、鼻の奥を刺激する。片耳がぼーっとして聞こえづらい。男は片手を押さえながらも身悶えるように、床を転がっていく。しかし銃はまだ男の手の届く位置にある、そう思った瞬間、大きな黒色のシルエットが視界を横切っていった。
「ぁ……」
赤井さんは手早く銃を遠くへ蹴ると、男の腕を荒く拘束する。床に横たわっていた男は痛みに悶えるように声を上げていた。
その間、私は動けなかった。浅く、呼吸を吸って。それでも上手く吸えなくて目に涙が浮かぶ。冷たいコンクリートの上、仰向けになったまま。まるで金縛りに遭ったように動けない。
「っ……名前、」
赤井さんは男に手錠を掛けると、もう片方を建物のパイプに繋ぐ。だんだんと彼の影が近づいてくるのを感じながら、必死に状況を整理していく。でも、“どうして居るんですか”、“なんで此処だと分かったんですか?”、聞きたいこともたくさんあるのに、息すらまともに吸えていない。
「名前、っ」
赤井さんが手荒く私の上半身を引き上げる。その拍子に少しだけ、息の仕方を思い出したのか呼吸が楽になる。
「名前……俺を見ろ、」
「っ、あ……っ」
「見るんだ」
赤井さんの瞳が、いつもと違う気がした。大丈夫です、ありがとうございます、伝えたいのに声にならない。赤井さんは私の状態を確認すると何度か頷きながら、片手で本部へ連絡をいれてくれる。救急も要請してくれていた。
「……なん、で、っ?」
彼が電話を切ってから、なんとか声を絞り出す。掠れた声でも赤井さんには伝わっているようだ。
「銃声が聞こえた」
そうして赤井さんは“もう大丈夫だ”と言いながら、震えが止まらない私の身体を落ち着かせるように腕を摩ってくれた。でもその優しさが今は辛い。捜査官なのに、こんなことで動けなくなる自分が情けなくて、悔しくて。赤井さんに“君はこの仕事に向いていない”と思われたくない。そんなの自分が許せない。
「……っ!」
なんとかして気持ちを立て直し、無理やりコンクリートの床に手をついた。すると視線上げた先、殺意を向けるようにこちらを睨んでくる男を見た瞬間、喉の奥がヒヤリと鳴る。
「……立てるのか?」
そう聞かれて頷くけれど、震える足には上手く力が入らない。どこまでも情けない自分の姿に腹が立つのに、身体は全く言うことを聞かない。
「すみま、せっ、」
気配見かねた赤井さんが肩を貸してくれて、私はほとんど引き上げられるようにして立ち上がった。でも、自力で歩ける気がしない。ようやくサイレンの音が聞こえてくる。目の前が真っ暗になるような思いだった。
*
「それで、例の男はまた闇の中……か」
応急処置だけ済ませて本部へ向かうと、ボスは視線だけで私を別室に呼んだ。状況は最悪だ。
「もういい、今日はもう帰れ」
「っ……しかし!」
「それにしても助かったよ、赤井君。わざわざ悪かったね。君ももう、仕事に戻ってくれていい」
ボスは私を無視したまま、そう言って部屋を出て行く。後ろの壁に凭れたまま、静かに私たちの会話を聞いていた赤井さんもボスに続くように部屋を出て行こうとする。
「赤井さ、っ」
「彼の言う通り、今日はもう帰るんだな」
「っ……でも、私っ」
「外へ出るついでに送ってやる、荷物をまとめて降りてこい」
それだけ残して赤井さんは出ていった。まるで、私の意見など聞くつもりはないみたいだった。
「ま、っ……待ってください!」
彼の後を追おうと足を踏み出すけれど、身体が軋むように痛みが走る。自然と息が詰まった。遠くで赤井さんの長い髪が揺れている。振り返った彼の表情からは何も読み取れない。
「今の君に、何ができる?」
「……っ」
数秒、空いた時間こそが答えだと言うように彼は黒のロングコートを翻して行ってしまった。
ーああ……。
ついに、赤井さんにも見放されてしまった。そう思うと、ずっと耐えていた涙も溢れそうになってくる。でも本当に赤井さんの言う通りかもしれない。今の私に出来ることは何もない。ここに居る意味はない。
「っ、すみません……」
私の姿を見て声をかけてくれた先輩たちからも逃げるように駐車場へ向かうと、既に赤井さんが車を回してくれていた。煙草の火を消して、早くしろと言わんばかりに、顎で乗れと言っている。
「あのっ」
私の返事も聞かず運転席へ向かう赤井さんを見て、これ以上迷惑をかける訳にはいかないと思った。急いで助手席へ座ると、本当に逃げ出しているようで虚しくなってくる。
「名前、」
先程よりずっと優しく聞こえたその声に顔を上げると、赤井さんは缶コーヒーを差し出してくれていた。その意味を、優しさを感じて受け取ろうと手を伸ばすけれど上手く握れない。指先が震えていた。
「ぁ……」
あれから時間も経っているのに、まだ震えが止まっていない。何度か手を握ってみても変わらなかった。そんな私を見かねた赤井さんは、助手席側のドリンクホルダーに置いてくれる。
「それは正常だ」
「……?」
「危険な状態にあったと身体が認識している。だから今は帰るんだ。これも通常の流れだよ」
「通常、の……」
「その状態では何も出来やしない。身体も痛むのだろう?」
咄嗟に反論しようとするけれど、言葉は続かなかった。全部、赤井さんの言う通りだ。
「とはいえ君のことだ。素直に休む気にもならんのだろうな」
赤井さんには、私がまるで駄々をこねる子供にでも見えているのだろうか。軽く笑いながらエンジンをかける姿からは、その言葉の意味を全く読み取れなかった。
「まあ、好きにしろ」
淡々と、赤井さんはサイドミラー出してはラジオをつけていく。無音だった車内には、どこか懐かしいカントリー調のミュージックが流れ始め少しだけ空気が柔らかくなる。
「このまま、気が済むまで乗っていればいい。俺は俺の捜査を進めるが、多少なりとも気は紛れるだろう?」
早く帰宅したいのなら別だが、と付け加えて赤井さんはシボレーを発進させていく。じゃりじゃりと、地面に音を立てながら門を出ると車は一気に加速した。ハンドルを握っている赤井さんはの横顔は、もういつも通り。
「いいん、ですか?居ても」
「ああ……頬は、冷やしておけよ」
そう言う彼の視線を追うと、ちょうど缶コーヒーが目に入る。これで冷やしておけということなのだろう。手を伸ばしてヒヤリとした冷たさを指先に感じていると、段々と気持ちも落ち着いてくる。恐怖を感じていたのだと、ちゃんと頭で認識出来たからか冷静さを取り戻せたのかもしれない。
「赤井さん、すみません私……」
赤井さんは道中、私に何も聞かず、何も語らなかった。ただ淡々と、しかし何かに掻き立てられるように捜査に勤しんでは、時折、体調や休憩についてだけ気にかけてくれている。だからこそ余計に。
「さっきから、謝ってばかりだな」
そう言われてまた謝ろうとしていたけれど、ぐっと堪える。
「これは全て、俺が勝手にしていることだ。不愉快だというのなら家まで送ろう」
「……いえ、そうじゃ、なくて」
丁度、赤信号で車が停まる。
「ありがとうございます、赤井さん」
「……それでいい」
私は力が戻ってきた手を、ギュッと握る。ここで弱っていてはいけない。明日から絶対に、取り返そう。それが私のやるべきことだ。
「いい目だ、」
そう言って、赤井さんは僅かに口元を緩ませた。その表情を忘れたくないと思った。ずっと遠くからでも、見守り続けてくれている赤井さんに私はいつか応えたい。そう決心して、私は前を向いた。